2013年6月 2日 (日)

「釣り人」と「魚取り」

「釣り人」と「魚取り」・・・

谿川に竿差す姿を見れば、チョイト見に判じ難い。
だが、その心情は天地ほどの違いがある。

『渓谷に垂れ下がった淡紫の風鈴花ソバナ(杣菜、杣はきこりの意)に、深い感動を示さない渓流釣り師はいないだろう。自然なもののこぼす泪のようだ。あなたが、杣花の花も知らず無関心に沢を登りついていたとしたら、それは釣り人とは呼ばない。私達はそういう人達のことを総称して魚取りと呼んでいる。』

前橋の釣り人、根岸治美氏が著書に記した一文である。

夏の終わりの頃、通う谿々で見る淡い紫色で俯いて咲いている、その姿は可憐だ。
気づいても気にも留めずに次ぎのポイントへと気が急くのなら、やはり魚取りと、私も思う。
何処からか女童の声だけが聞こえてくるような幽林深沈とした奥域に分け入って、名は知らぬが可憐な花々に目も留まらず、里では聞かぬ鳥の啼く声に耳も澄まさず。
もしそうであったなら、魚を釣る者であっても、谷を捩り登る者であっても、また山を巡る者であっても目標目的は其々としても、折角に自然の中にありながら半分も自然を味わえていないのではあるまいか。 もったいないことだ。


(ずっと昔に、根岸氏の釣り心情に憧れて奥利根の渓を経巡った。遂には、無遠慮にも氏のお宅を訪ねたこともあったが、お会い出来なかった。)

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2011年5月30日 (月)

デジブックを一つ作りました。

先日、中津川の学沢へ行きました。

“何で あそこへ行きたかったのだろうか・・・。”

山ツツジが見たかったから…
人の手で破壊された谿は如何なったろうか…
劣悪な環境で岩魚達は元気にしているだろうか…
いろいろと考えてみました。
どれも少し違うような気が致しました。

奥の二俣に辿り着いて、判りました。
“そうか、俺は此処へ此の場所へ来たかったんだ。”


私はこれまでも、何で秩父の奥谿を彷徨するんだろうか…どうもよく判りませんでした。
“自分の居心地のよい 自分の桃源郷を探して記憶に残したいんだ。”
   山のあなたの空遠く「幸いはひ」住むと人のいふ
   山のあなたになほ遠く・・・
だから山のこなたをひたすら徘徊するのでしょう。
たぶん そうなのでしょう。


そんな訳で、記憶に残っている山のこなたの風景を拾い集めてみました。
(まだ大切な良い場所が沢山に残っているような気がします。それは後から追加するとして、とりあえず)


題名を「私の桃源郷」としていましたが、
「私の…」が何やら気恥ずかしく「山のこなたの桃源郷」と改めました。

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2007年9月 6日 (木)

此の谿の岩石を板碑に使えばよかったのになぁ…。

Blogitabi

 今を溯ること七・八百年程の前、つまり鎌倉・室町時代の石造物に板碑・青石塔婆・板石塔婆と呼ばれるものがある。
これは、追善供養(死者の追善供養)や逆修供養(己の死後の供養)の為の石の塔婆で、一枚の板状の岩石に仏や菩薩の梵字を彫り、その下に供養者の名や紀年銘などを刻み込んだ多くは一㍍から一㍍半ほどの高さの石碑である。
ところで、この石碑の元となる岩石は武蔵の国で発見される、その殆んどは「秩父青石」と呼ばれる緑泥片岩なのだそうだ。この岩石は一枚一枚が玉葱の皮を剥く如くに剥がれるのだ、とのことである。
この「秩父青石」の採掘は秩父の長瀞の野上の山腹であって、今も石材の採掘跡が保存されている。

したり顔で書いたが、上の記述のあらましと右の画像は日高市の資料館に展示されていることから得た。

沢山に並んだ石造物を見ていたら“こんな一枚板の岩盤が積み重なっている風景を何処かて゜見た”記憶が蘇ってきた。
厚さが五㌢ほどの板状の岩盤が無数に積み重なって両岸に岩壁を成している谿。
実に、珍奇な風景だった記憶がある。
“何処の谿だったろう・・・”
滝川だったかいな、入川だったかいな、それとも大血だったかいな、なかなか思い出せない。
“そうだ! 中津の小倉沢の源流だ!”やっとに思い出した。

何やら無性にその谿の風景が懐かしく思えて、出かけてみることにした。
快適になり過ぎてしまった中津川に沿う道を走り、途中から支流の神流川沿いの曲がりくねった林道を走った。
手掘りの長いトンネルを潜って谿と道の両側に建ち並ぶ廃鉱山跡(下の一部は稼動している)の廃墟の中を行く。
更に更に、金山志賀坂林道を上り落合橋の袂に着いた。
水流が全く無くて乾いた石ころのゴーロで上ってきた小倉沢はこの下で二俣に分かれている。
左俣は両神山への登山道が沿う八丁沢だ。
記憶によれば右俣であった。
大分の昔に“岩魚は棲むか”とこの谿の源流まで詰めてみたことがある。
確か、岩魚は棲んで居なくてやがて水は枯れ両神山に続く岩峰にかけ上がる様に胆を冷やした覚えがある。
その途中で一枚岩の岩板が積み重なって出来た岩壁を見たのだった。
Blog810ogra6

踏み跡も無い薮を分けて下の谿床に降りた。
果たして、此処小倉沢の上流に全く水の流れは無かった。
この流域の地下深くには、無数の廃坑道が縦横無尽に穿ってあるのだそうだ。
その中に水は流れ込んでしまっているのかもしれない。
上流の二俣の方からゴウゴウと水音がする。
上の両俣ともに水流はあるのだか、出合った処で地中に吸い込まれてしまっている。
水の無い乾いた谿床の岩石を見れば“あった!”。
やはり此処の谿のもっと上流だった、殆んどは扁平な板状の岩石で谿は埋め尽くされている。
少し遡って二俣に着いた。
左俣の八丁沢の水量は細い。
右俣を覗くと滑た二㍍ほどの滝が架かっている。
水量は八丁沢より少し多い。
ゴウゴウと聞こえた水音は、この瀑声であったらしい。
“確か此処に岩魚は棲んで居なかった”
少しの溜まりをソット覗いて見たが、やはり棲んでは居ない。
滑り易い一枚岩の滑床を遡ると、両岸は岩壁になってきた。
其の岩壁を見上げれば、果たして此処であった。
岩壁は、薄い一枚板の岩盤が何百層にも積み重なった造りになっている。
谷間には、剥がれ落ちた平たい岩石で埋め尽くされている。
“やはり此処だった、此の岩石で板碑を造った者は居なかったのだろうか…”
その一枚一枚は素晴らしい程の平板で、素晴らしい板碑が出来そうに思えた。
“何時の日にか寿命が尽きる頃になったら、此処の石を墓碑にと頼もうか…”とも考えてしまった。
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暫らく上流へ遡ると滑メで造られた支流が合う。
此の支流の三㍍ほどの滝は素晴らしい。
三十㌢ほどの厚さの岩盤が積み上って、まるでレンガが重なって出来上がっている様なのだ。
此処もまた、なんとも摩訶な風景だ。
乾いた滑床の岩盤に座って積み上った岩壁から落ちる細い滝を見ながら、よく冷やした寿司を喰った。
マグロにイクラ、アワビにイカ、この日の寿司は実に…実に美味であった。

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2007年7月 6日 (金)

秩父山域の岩魚浪漫・・・。(其の三 空絵ノ谷中流部)

Blogsoraezu3
大滝の巻きは困難を極めた。
右岸は切り立った岩壁でとても登れるものではない。
左岸の急斜のガレ場を上って滝を構成している岩場を回りこんで巻くことに決まった。
幕具を撤収して、ガレに取り付いた。
崩落したガレは一足踏み出す毎にガラガラと崩れ落ちるのだった。
少しでもよろめけば、ゴロゴロと転がって谷底の堆積した大石に叩きつけられることになる。
白髭さんを先頭にして三人は20mザイルに繋がって、九十九折れに登った。
私はしんがりだったが、先行く二人は頻繁に『落く~!』『落く~!』と叫んだ。
其の度に頭を抱えて、ガレに突っ伏さなければならなかった。
ヘルメットに小石がコツンコツンと当たるのだった。
ガレ場の上部で横に逃げて、やっとの事で滝横の岩壁に続く痩せ尾根の頂点に辿り着いた。
一服しながら汗の引くのを待った。
しかし、そこは滝の落ち口から20m程の崖の上部だった。
急斜面を木々に摑まって降りると、そこから下は見事にハングした岩壁だ。
立木の根元にザイルを結わえ、10m程の懸垂下降を強いられることになってしまった。
三人は、ザイルに縋って慎重に降下した。
岩壁に足は届かずに、体は宙ぶらりんでクルクルと回った。
ザイルは、帰りの為にと残しておく事にした。

大滝の上は、素晴らしい滑メ床だった。
岩床を滑るように流れ来た水が、突然に足元を無くして滝となって落ち込んでいるのだった。
“疲れた・・・。”
時計を見ると、午後の一時を少し回っていた。
ガレ場を登りはじめたのが十一時半だったから、約一時間半の大高巻きだった。
『飯を喰おうよ。』誰かが云った。
岩床に腰を下ろして、何処までもと光り続く滑メ床の上流を眺めながら握り飯に喰らい付いた。

“きっと…きっとこの上は素晴らしい谿で、素晴らしい岩魚達が棲んでいるに違いない。”思うのだった。

                                      つづく


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