追憶の谷 奥巣山谷 “殺生をすまい・・・と誓わせた岩魚”
随分と前のことである。
その日
浦山川水系の支流、橋立川の源流域を探釣する為に向かった。
此の川の源流域は、幾つもの細流に分かれている。
その最も奥の、最後の一匹の岩魚を確認するのが目的だった。
武甲山への登山道を見送り、上流へと続く杣道を辿る。
大滝を眼下に眺め、まだまだ先の源流へと急ぐ。
やがて、此の川の最奥の細流の奥巣山谷に辿り着いた。
一跨ぎ程の流れだ。
この辺りまで来ると、人の踏み跡などは全くない。
熊との遭遇が怖くて、腰の鈴を振り鳴らして“ワァー”“オォー”と叫びながら歩いた。
落ち込みの溜りに毛鉤を落とすと、小振りの岩魚が追い来ては咥える。
随分と遡り来た。
いよいよ流れは細くなり、深さも足の踝ほどもない。
“岩魚達も、いくら何でも棲むに限界だナ・・・”と思われる。
落とす毛鉤にも、岩魚は出なくなった。
大きな岩が在って、その下がⅠ㍍四方位の溜りになっている、深さは15㎝ほどであろうか。
谿合を見れば、上方の10㍍ほどの先で水流は消えている。
“もしや・・・”と毛鉤を落とすと、岩下から真っ黒の影が走り出て咥えた。
慌てて竿を立てると、勢い余って黒い小さな岩魚は後ろの草むらに飛んで落ちた。
落ちた辺りを探したが、見つからない。
随分の間、草を分けて探したが、その姿は見つからない。
“可哀相なことをした・・・” 悔やまれた。
諦めて、上流を偵察すると、その先で水流は消え再び流れは復活することはなかった。
戻り来て、先ほどの場所にさしかかった。
水辺の際に五寸ほどの岩魚が横たわっていた。
手にとると、既に体色は白っぽい死色だったが、朱斑は鮮やかで綺麗なままだった。
体は痩せて小さいが、斑紋の数から成魚と知れた。
あまりに流れが細くて餌が少ないから大きくなれないのだ。
“流れに戻ろう・・・と、懸命に此処まで跳ね寄って力尽きたのだろうか・・・”
その目は大きく黒く見開いていて “どうして僕を釣ったんだい・・・”と問うているようだった。
ソット 水の中に戻した。
あまりに少ない流れなので、小さな岩魚は横になった儘だった。
手を合わせて、流程の長い谿の最終の此の小さな岩魚への懺悔とともに冥福を祈った。
今でも時々に、この小さな岩魚を想い出す。
そして、“絶対に殺生はすまい・・・” と誓うのだ。
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